一人の農民を通して20世紀の東北農民を描く

小国郷の一農夫の20世紀

後藤義八郎の生涯 

日本共産党山形県委員会書記長

近現代史研究者  後藤太刀味

1,20世紀はじめ、貧しい農家の次男として生まれた。

ミレ二アムにわいた2000年1月22日の未明、勤務先の宿直室に妻からの電話

が入った。前夜なんとなく深沢七郎の楢山節考』が読みたくなって、遅くまで読んでいたので寝ぼけ眼で受話器を取った。大滝の父が危篤だという。急いで小国町立病院にむかった。私が着いたときには事実上父は死亡していた。91歳だった。三日前に肺炎で入院したのだが、兄はたいしたことがないと思い兄弟たちには知らせなかった。でも父にとっては覚悟の入院だったらしい。玄関を出るとき、「もう帰れないだろうな」とつぶやきながら家屋敷を眺めていたという。肺の持病をかかえていたが、最後まで普通の生活をして、ボケもせず、足腰の弱った妻の介護にもかかわっていた父だった。

 激動の20世紀をほぼ丸々生き、静かに人生の幕をひいた平凡な一農夫の生涯を追いながら、近現代の東北農村の一断面を見てみたい。

 父・後藤義八郎は1908年(明治41年)に西置賜郡小国本村大字杉沢に生まれた。日露戦争直後の時期だった。約1町6反歩の小作農の次男だった。もともと生家は自作農だったが資本主義が農村に浸透する中、明治の中ごろ小作農に没落した。父の祖父・重太郎は大酒のみで貧乏に拍車がかかったようだ。父の話では重太郎は、鍋釜や農機具類などは別にして金目のものは何でも酒にかえたらしい。1887年(明治20年)生まれの父の母・ちうはこの祖父の娘だった。一人目の婿・重吉が出て行った後に、父の父・武二をこの家の婿養子にした。武二は杉沢から東に2`ほど行った黒沢集落の生まれだった。ちうの前の夫には男の子が一人いた。重市という名前のこの子は義八郎にとって、父違いの兄ということになる。兄弟は結局二人きりだった。

ちうは大変苦しい家計のきりもりと農作業の担い手だった。貧乏にめげない明るいおおらかな性格の女性だったようだ。

 

2, 義八郎が幼少の時、父・武二は北海道に働きに行って長期間帰ってこなかった。

義八郎がまだ小学校に入る前のこと、おそらく1911年(明治44年)頃では

ないかと思うが、武二は北海道に出稼ぎに行った。小作地の耕作は妻だけでやっていけるので、現金収入を求めて渡道した。武二は1883年(明治16年)生まれだから当時は20代後半だった。東北農村はこの時代、地主・小作制度の矛盾の広がりに加え、冷害・凶作が度重なった。食えなくなって一家を挙げて北海道に渡る人が随分あったらしい。小林多喜二の一家もそうだった。小林家に遅れること数年、武二(私にとっては祖父だが)が何か見通しがあって北海道行きを決断したわけではなかったと思う。「松前は景気がいいらしい。ここよりはましだろう」「行けば何とかなるだろう」という程度だったと思う。武二は十数年北海道で働いたが、実家にはほとんど送金しなかった。自分ひとり生きていくのが精一杯だったのだろう。

一番長くいたのは松前地方で、そこでは木材伐採の仕事をしていた。私は札幌の「北海道開拓村」を訪ねたときに、明治・大正の頃の山林労働者の飯場というものを見たが、祖父もこういうところで寝起きして働いていたのかと感慨を禁じえなかった。

 武二はその後各地を流浪して最後は北見地方で砂金掘りをした。北海道のゴールドラッシュはすでに遠い昔のこととなっていた。砂金掘りで生きていけるわけがなかった。結局食い詰めて故郷に帰った。武二は砂金集めの道具を持ち帰りみんなに見せていたという。父の戸籍謄本を見ると祖父は大正5年に朝妻家から「離縁」されている。北海道に行ったきり送金もないし、便りもない婿養子を残された人たちは許すことが出来なかったのだろうと思う。この人が昭和初期に帰郷してどういうことになったかは追って書くことにする。

 

3, 生家・朝妻家はマルヤの小作だった

   明治から大正にかけて現在の小国町には須貝、今という二人の有力地主がいた。その屋号はそれぞれ「トマス」「マルヤ」といった。父の生家、朝妻家(屋号は伝七)の地主はマルヤだった。杉沢の集落にはマルヤの小作人が多かった。集落の半分以上は多かれ少なかれマルヤから農地を借りていたという。マルヤは小国本村に65町歩の農地と120人の小作人をもっていた。一方トマスの方は172町歩・250人ということでマルヤの倍以上の規模を誇っていた。小作料は作況に関係なく一反歩約2俵位だったといから、収穫の4割前後と思われ、これは江戸時代の年貢とほぼ同じ率だった。

   近代日本、とりわけ東北地方の小作農の暮らしは商品経済、貨幣経済が浸透していただけに大変深刻なものだった。1920年代後半に入ってから東北地方で小作争議がひん発する。昭和初期、小国地方にも若干の農民組合員がいて班組織らしいものがあったという資料はあるが、大きな影響力はなかった。地主と小作人の関係は多くの場合、人格的従属をともなっていたので、とんでもなく高い地代をとられながらほとんどの小作人は、「地主様にお世話になっている」というような意識状況にあった。それは戦後の農地改革後もしばらく続いた。近代・東北地方の民衆の生活や意識、社会運動を考察する場合、地主・小作制度、それと、「資本主義のいびつな発展」という問題をさけては通れない。

 

4,「学校はさっぱりおもしろくなく、毎日家の雑用に追われていた」

父は1915年(大正4年)小国小学校種沢分教場に入学した。調べてみると、種沢分校は明治8年に寺子屋のようなかたちで種沢集落にある龍正寺に設置されたのがはじまりだった。父が入学した頃は複式の2つの学級があり、先生は本校から派遣された佐藤という訓導(正教員)と代用教員の二人だった。父は、「おれは学校の成績がさっぱりで、いつもぼんやりしていた。先生には怒られ、同級生には馬鹿にされていた。はじめのうちは成績がよかったように思うが、いつのまにか落ちこぼれた。学校はいやなところ、おもしろくないところだった」と語り、さらに「今にして思えば、それなりの理由があった」「おれの小学校時代の日課は決まっていた。下校後は夕飯の準備、ランプ掃除、そして時々小坂町(村役場のある中心街)に石油や味噌買いに行くことだった。往復4`の道のりだった。家には借金とりが随分きたが、それに対応するのも留守番をしている自分の仕事だった。一時は家に来る人みんなが借金とりに見えた。小さな子どもの能力では、こうした雑事への対応で精一杯、とても勉強どころではなかったのでは、と後年考えた」。

明治後半から大正初期の困窮し、荒廃する農村を描いた小説には『土』(長塚節)、『南小泉村』(真山青果)、『貧しき人々の群れ』(宮本百合子)などがあるが、義八郎の周辺は小説の世界そのものだった。

極貧、父親の不在、働き者ので人のいいやさしい母、のんだくれでいつも家族を怒鳴りちらす祖父という家庭環境が父の人格形成にどう影響したのか考えてみると興味深いものがある。私の知る限りの父は、自分の考えをきちんと持ちながらもがむしゃらにそれを主張し続けるとか、口論するとかはまずなかったと思う。相手の意見をよく聞き、相手の立場を尊重した。父は5人の子ども一人ひとりに目配りをしながら育ててくれたと思う。どの子にも分け隔てなく愛情をもって接したといえる。父の性格、資質がどういうふうに形成されたのかについては、十代から二十代前半にかけての時代、出会った人々なども含めて考える必要がある。

 

5,  尋常科卒業後、小倉集落の「長七」に奉公に出た

   1921年(大正10年)に尋常科を卒業した父は高等科には進まず、半年ほど実家の手伝いをしたあと小倉集落の親戚の家に奉公にいくことになった。口減らしのためだった。小倉は10戸足らずの山深いところだった。杉沢から5`ほど南に位置していた。奉公先は「長七」という屋号で、小嶋運吉という人物が当主だった。短気で酒好きの、人のいい人物だった。小嶋家は、米と養蚕の比較的裕福な農家だった。実はこの家には、屋号と同じ名前の長七という子どもがおり、父の同級生だった。長七は種沢の分校から本校の高等科にすすんだ。その後は山形市の師範学校に進んだ。奉公先の息子であるが、父にとっては無二の親友であり、「先生」でもあった。

   満12歳の義八郎は体が小さくまだ子どもだった。厳しい農作業などできなかった。奉公というと「おしん」イメージが強いが、父の場合随分恵まれていたようだ。杉沢の家ではひもじい思いの毎日だったが、小倉では粗末でも三度の飯がきちんと食えた。育ち盛りの子どもにとってはそれだけでもうれしいことだった。小嶋運吉は、義八郎を労働力としてよりは、一人前の大人に育てたいと考えていたのではなかったかと私には思われる。

   義八郎は町の仕立屋でかわいらしい仕事着を作ってもらった。田植え前後、稲刈りの頃、それと養蚕の時は忙しかったがそれ以外は暇なときもあった。そんなときには最初は立川文庫の講談本を読んだ。『猿飛佐助』や『一休禅師』、『水戸黄門』は何回読んでもあきなかった。テレビやラジオはもちろんないし、娯楽の乏しい時代だった。大正時代読み物として講談は広く少年たちの心をつかんだ。立川文庫は明治末期から関東大震災前後まで十数年間に約200点を刊行したという。

   山村の小倉集落の雪は多い。だから11月になると冬期分校が開設され、子どもたちはそこで春まで勉強した。義八郎の冬仕事は雪片づけと縄ないだった。縄は農家にとって必要不可欠なものであった。縄をなう機械が普及したのは戦後のことであり、私も小学校の時へたくそな縄をなった覚えがある。単調だが考え事をしながらできる仕事だったのできらいではなかった。少年義八郎も半分「猿飛佐助」の世界にひたりながら縄をなっていたのかもしれない。

 

6,  長七に教えてもらい、通信教育で勉強を始めた

   小倉に行ってどのくらいたってからのことだろうか、父は勉強することに目覚めた。大正デモクラシーの反映と思うが、当時若者の間に通信教育が急速に広まりだした。『大日本国民中学会講義録』と『早稲田中学講義録』の二大講義録の会員だけで大正末期には36万人に達した。当時の中学校生徒数29万人と比較しても大変な人数である。ただ、現在の通信教育と違う点は、きちんと修了しても「卒業」の資格は与えられなかったことである。ほとんどの受講者はテキストをとりよせて、それぞれの流儀で独学した。義八郎は『早稲田中学講義録』を取り寄せた。特に国語と理科の勉強がおもしろかった。師範学校時代の長七は山形市の寄宿舎に泊まり込んでいたから、長期の休暇の時しか帰ってこなかったが、父はその機会に徹底的に教えてもらった。尋常科しか出ていなかった義八郎にとって難しい勉強が多かった。はじめて習う英語の勉強はきつかった。師範学校に入ってから長七はキリスト教に深い関心をもった。洗礼を受けたかどうかはわからないが、父にも聖書の普及版のようなものを買ってくれ、熱心に信仰をすすめたという。

   父は「長七は頭のいい人間だったが、よく勉強もした。彼が帰省した時は同じ座敷に布団を敷いてもらったが、おれが早く眠ってしまうために長七がいつ床につくのか知らなかった」と語っていた。長七は師範学校卒業後、今の白鷹町の鮎貝小学校を皮切りに西置賜郡の各地の学校に勤務し、校長も何年か勤めたが義八郎との親交は生涯続いた。

 

7,  杉沢の実家に帰り、「青年夜学会」で学んだ

   義八郎の小倉時代は足かけ7年だった。兄が応召されたので実家に帰らなければならなくなった。1927年(昭和2年)の夏のことだった。この頃、父は19歳になり体はそう大きくなかったが考え方はすっかり大人になっていた。実家では兄嫁とともに農業をした。米つくりに加え、炭焼きをした。青年会に入り「青年夜学会」で学んだ。

「青年夜学会」は大正中期頃から農村で盛んになった農業補修学校の正式の授業だった。農閑期の1月から3月にかけて、32日前後かけておこなわれた。種沢分校をかりて行い、認定の関係もあり学校の先生にも時々入ってもらったが、通常は青年会の先輩が指導にあたった。テキストは『山形県補修読本』で、国語、公民、珠算、作文などだった。作文は主に手紙の書き方だった。満州事変後になると銃剣術の練習が課目のひとつに加えられた。

   この頃の杉沢集落では佐藤亘という人物が青年会のリーダーだった。父はこの「九助」という屋号の総領である佐藤亘という人物には随分世話になっている。佐藤は世話好きだったらしい。父が大きな影響をうけた人物の一人であったと思う。後に佐藤は父母の仲人になったし、いったん離縁した父の父、武二を再度朝妻家に住むようにとりはからった。はっきりわからないが、北海道から帰郷した武二が朝妻家に住んだのは3年程度だったと思う。1931年に武二はなくなっている。義八郎は身勝手な父親には批判的であったし、朝妻家にはいる場所もなくなっていたので、武二の存命中に家を出ることになるが、その前にふれておかなければならないことがある。

 

8,  二夏、伝導師たちからキリスト教を学んだ

   父が杉沢の実家に帰った翌年(1928年)の夏のことである。内村鑑三門下の鈴木弼美、政池仁の両名が小国地方に伝道にきた。種沢分校での説教を義八郎は興味深く聞いた。そしてさまざまな質問をした。すでに長七からキリスト教についてある程度教えられていた義八郎には疑問がたくさんあったのだ。この翌年の夏も鈴木らは伝道にきたが、その時も父は二人に会っている。しかし義八郎はクリスチャンにはならなかった。

   当時旧制静岡高校の教員だった政池仁が小国地方の伝道を始めたのは1924年(大正13年)からであり、鈴木がこれに合流したのは1928年(昭和3年)のことだった。まだ小国地方には鉄道がなかった頃である。また鈴木が東京大学の助手をやめて小国郷の叶水(当時は津川村)に私塾を創設したのは1934年である。今日のキリスト教独立学園の前身である。

   私は、なぜ鈴木らが小国地方に伝道に入り私塾を開設したのかについて、助川暢キリスト教独立学園現校長に聞いたことがある。助川氏は「内村はアメリカ留学時代に日本地図を広げて、帰国後の自分の布教地は山間僻地でなければならず、その地は岩手県の山形村か、山形県の小国郷だと決めていた。しかし本人にはそれが不可能になったので、弟子に託したという説が一番有力だ」と教えてくれた。鈴木は何度か「治安維持法違反」で検挙され、「スパイ」よばわりされたが初志を貫徹した。鈴木の著作、『心理と信仰』のなかに「回顧と前身」という章があり、この辺についてくわしくふれている。

   種沢分校の講演の時、父は政池から内村の著作『後世への最大遺物』をもらった。この本は現在岩波文庫の一冊となっており、毎年独立学園高校の新入生にプレゼントされるそうである。鈴木弼美は戦後長く生きたが、義八郎が鈴木と再会することはなかった。父は仏教にも興味はあったが、生涯特定の信仰を持つということはなかった。ただいえることは、キリスト教の思想が父の人格形成に大きな影響を与えたということである。

 

9,  大滝・後藤家で住み込みの使用人として働く

    さて、実家を出た父は、多分大滝集落の所有地だったのではないかと思うが、松峰とよばれた山の中に炭焼き小屋を建て、そこで1年ほど暮らした。1931年(昭和6年)満州事変の頃だったと思うが、例の青年会の先輩・佐藤亘の紹介で大滝集落の後藤孝太郎家の使用人として住み込みで働くことになった。使用人といっても、実際は実力を見込まれて農作業を任されたのである。朝妻義八郎は23歳になっていた。

    明治中期から在村耕作地主であった後藤家は、昭和初期には2町歩耕作し、1町歩を小作に出していた。確証はないが後藤家はおそらく江戸時代には村役人ではなかったかと思っている。私は小学1年生までそこに住んでいたのでよく覚えているが、「板小屋」とよばれ味噌樽や冠婚葬祭用の什器を置いている建物の屋根裏には、刀剣や古文書などがたくさんあった。古文書のなかには何か貴重なものがなかっただろうかと後年考えた。昭和初期の後藤家の当主の孝太郎はなかなかの人格者であり、地域では名の知れた測量士だった。1887年生まれだから、このころ40代後半だった。義八郎が後藤家に奉公に入った時分にはまだ隠居の清蔵が健在だった。清蔵もまた立派な人物だったと父は語っていた。大滝に電気がついたのは終戦直後(1946年)だったが、後藤家の人たちは父が遅くまでランプのもとで読み書きすることを好意的に見ていたという。義八郎は農閑期には炭焼きをした。後藤家には、十数町歩の里山があったので、義八郎の発案でこれを活用したのである。義八郎は一定の小遣いをもらったが、後藤家ではまとまった金を父の実家の朝妻家に渡していたという。朝妻家の貧窮は相変わらずだった。

 

10, 後藤孝太郎爺のこと

    後藤孝太郎についてもうすこしふれておきたい。当然のことながら私には父方、母方双方に祖父がいる。前述のとおり父方については私が生まれる十数年前に亡くなった。母方については全然記憶がない。孝太郎はみんなに「おじさん」とよばれていたが、私にとっては孝太郎が文字通り「お祖父さん」だった。存命中はかわいがられた。孝太郎は測量士としてだけでなく、手先が器用だったのでムラで葬式があったとき棺の紙細工を一手に引き受けていた。また近郷近在の子どもたちの名づけ親だった。太平洋戦争末期に生まれた私に「太刀味」という勇ましい名前をつけたのも孝太郎爺だった。孝太郎夫婦には実子がなかった。1936年(昭和11年)に木村きのが小倉集落から後藤家の養子としてもらわれ、父と結婚したのである。孝太郎の妻トミも好人物であり、義八郎夫婦をそれなりに遇し、私たち兄弟を実の孫のようにかわいがってくれた。

 

11, 小倉集落出身の木村きのと結婚した

    きのは、1915年(大正4年)、木村源吉・さん夫妻の5女として生まれた。木村家は「ゲンニム」という屋号だった。母は、当時この地方の農家の子女と同じ様に、尋常小学校卒業後は家の農業を手伝いながら、大龍寺の住職夫人に裁縫を学び、行儀見習いをした。佐藤亘の仲人であったが、孝太郎が大変乗り気でわざわざ小倉の木村家を訪れたという。母にとってこのことは大変自慢の種だった。「後藤家から望まれて嫁にきた」というプライドは強かったと思う。義八郎と、きのは、後藤家の奥座敷で結婚式をあげた。父28歳、母21歳だった。二人は養父母の孝太郎夫妻によくつかえ、必死に働いた。こうして数年の歳月がながれたが、この時代は日中戦争から太平洋戦争にいたる激動期だった。長男、次男が相次いで生まれ、半年しか生きなかったが三男も生まれた。

 

12、 太平洋戦争勃発の直前に召集され南方に赴いた

    父に召集令状がきたのは1941年の秋口だった。父はすでに満33歳になっていたから、初年兵としては、若くはなかった。国がアメリカとの戦争の方針を決定し、そのための部隊を編成した。南方の石油資源確保のための戦力が必要とされた。父たちの出征は秘密裏にすすめられた。見送りも禁止されたという。対米開戦が決断されたのは11月5日のことであるが、7月末に日本軍が南部仏印に進駐し、その3日後にアメリカが対日石油輸出の全面禁止に踏み切ったという緊迫した情勢の中での召集令状だった。父は山形市の32連隊に入隊し若干の訓練を受け、安芸の宮島に参拝したあと乗船し南方に向かった。三男が亡くなったのは父が南方に向かう船の中だった。「霜の降った寒い朝、目覚めた時には生後半年の子どもは冷たくなっていた。小倉に里帰り中のことだった」と母は三男の祥月命日のたびごとに私たちに聞かせたものだ。父の部隊は、「12.8」をカムラン湾の船の上で迎え、太平洋戦争に突入するとともにボルネオ島に駐留した。父の仕事は港での荷揚げ作業の監督だった。1年半この任にあったが、1943年7月に復員した。この時期すでに制空権はアメリカに握られていたから、南方からの帰還も決して安泰なものではかった。何度も危険な目にあったという。大滝集落の満州事変から終戦までの戦没者は11人にのぼったというから父は「運がよかった」といえる。

    「銃を持って人を殺傷したことはなかったが、後で考えて見るとよその国に攻め込んで資源を略奪した訳だから、随分悪いことをしたことになる」と語ったことがある。

 

13, 義八郎の戦争観、歴史認識はどんどん深化していった

    復員してから父は農業にまい進した。1944年5月に私が生まれた。そして終戦となった。ここで、父が満州事変から敗戦までの時代をどう認識していたのかについてふれておきたい。多くの日本人がそうであるように、父の場合も思想動員・マインドコントロールされた戦前と、真実が明らかにされた戦後になってからでは考え方に大きな違いがある。また父の場合、戦後については時代が下がるにつれて、厳しい歴史認識をもつようになった。「戦時中は、日本は土地がせまいので貧しい農民が多い。満州には広大な土地があるという。自分は戦うことはすきではないが今度の戦争は当然と考えていた。戦後になってから軍部と政府、マスコミにだまされていたことがわかった。でも最近になって、自分に加害者としての一面があったと考えるようになった」と語ったのは、1970年代になってからだ。晩年の悠々自適の生活のなかでも批判的精神を持ち続け、静かに時代を見つめていたので、歴史認識はさらに深められたと私は思っている。

    私たちが小さい時分、父からの戦争での手柄話を聞いたことはないし、ラジオなどから「軍艦マーチ」などの軍歌が流れると嫌な顔をしていた。キリスト教の影響かどうかわからないが、天皇については若い時からクールに考えていたようだ。

    戦時中の義八郎の思想に関わって、ふれておかなければならないのは木村武雄のことである。父は木村に共鳴するものがあったという。木村は米沢市の政治家の息子として生まれ、自らも政治家を志向。ムッソリーニに心酔し、黒シャツを着て凶作と不況にあえぐ農村をまわっていた。山形県の農民運動(小作争議が中心)は全国農民組合左派の指導のもとに昭和初期には全国でも活発な方だった。その拠点は西村山郡、北村山郡だった。しかし官憲の弾圧が厳しく、満州事変の半年前の1931年、「小田島事件」により勢力を大きく後退させた。その後に台頭したのが木村の右翼的農民運動だった。

    木村武雄は「置賜農民同盟」という組織をつくり、その勢力を村山地方にまで広げた。さらに中野正剛、石原莞爾などの影響を受け、「東方会」ついで「東亜連盟」に組織を発展させていった。戦前日本におけるファシズム運動の一形態である。1932年(昭和7年)から42年にかけて行われた「農村経済更生運動」の展開の中に木村の言動が位置づけられると思うが、中農の一使用人だった父がどこまで深く考えて木村に関心をもっていたのかはわからない。残念ながら、存命中に確かめることができなかった。なお木村は戦時中から国会議員に当選し、戦後も長く代議士であった。父は1960年代前半まで木村に投票していたという。

 

14, 分家・独立、そして試練の時代をのりきる

    「いずれ分家をだしてやる」という約束になっていた。終戦後しだいにその話が具体化した。1950年(昭和25)、5反歩の田んぼと3町歩の山林、100坪位の

宅地に30坪程度の家を建ててもらい義八郎一家は、孝太郎家から独立した。時に義八郎42歳、終戦後に生まれた一男、一女を加え子どもは5人になっていた。義八郎一家の独立は戦後民主主義と密接に関係があったと私は思っている。幸太郎は人格者であり、義八郎親子については、それなりに面倒をみたが古い考えを捨てることはできなかった。義八郎と孝太郎の確執は当然あったに違いない。時代の流れについていけない孝太郎の言動のいくつかを私は記憶している。孝太郎の妻トミは1946年に病没しているので、60歳を超えていた孝太郎は一人暮らしになりかねなかった。結果的には孝太郎の身の回りの世話をする人が配置された。当時の関係者は亡くなったか、母のように表現能力を喪失してしまっているので本当のことはわからないが、「分家しない」という選択肢もあったと思う。

 いずれにしても、義八郎家は本家から100b位しか離れていなかったし、両家の出入りはひんぱんにあった。孝太郎爺はそれから10年後の1960年(昭和35年)6月に、安保闘争の最中だったが、不慮の事故で亡くなった。当時高校1年生だった私には初めて経験する「近親者」の死だった。

 さて、独立した義八郎は農業だけでは到底くえないので、炭焼きをした。エネルギー革命がはじまった1960年代になると炭焼きで暮らしをたてていくのは大変になるが、50年代は炭焼きが山村の副業として盛んだった。最盛期には大滝集落の半分位が炭焼きをしていたと思う。国有林を払い下げてもらって炭を焼いた。はじめのうちは里山だったが、しだいに山奥に入っていった。

 ここで炭焼きについて若干ふれておきたい。小国地方で炭焼きが本格的になったのはそう古いことではない。米坂線の小国・今泉間が開通になったのは1935年(昭和10年)のことだった。商品としての木炭は輸送手段の確立を必要とする。炭焼き小屋からムラの共同の炭倉庫に運ばれた木炭は、炭検査官によって等級が確定され、さらにそこから牛車や人力で小国駅まで運搬されたのである。山から炭を運び出す仕事には小学4年生くらいからかかわった。はじめのうちは15`の炭俵を1俵、なれてくると2俵背負って山を下るのが当たり前だった。私もそうして育った。

 木炭には白炭と黒炭があり製法が異なる。たたくと金属音がするのが白炭である。父の場合黒炭専門だった。黒炭の値段は安かったが、手間がはぶけたのだろう。毎年「山の神祭り」が旧正月の後にあったが、それは炭焼き仲間のお祭りだった。若い衆がさんざん酒を飲み、あげくのはてに、取っ組み合いの喧嘩をしていたことを覚えている。考えてみると、この地方において、多分に封建制と結びついた農村共同体が存続していた最後の時期だったかもしれない。高度成長経済は農村の生活文化の近代化を急速にすすめていった。

 次男が東京の親戚にあずけられたのは分家後まもなくだった。当時小学校6年生だった。また、その翌年弟が結核で入院した。新生後藤家は重大な試練に直面した。長男は定時制高校を中退せざるを得なかった。弟はまだ小学2年生だったので、ひんぱんに病院に顔をださなければならなかった。父は山奥の炭焼き小屋から帰ってから町の病院へ行くというハードな仕事をこなさなければならなかった。1950年代中ごろ義八郎家の家計は最悪だったと思う。ただ、世間一般が似通った状況だったから私は格別大変とは思わなかった。今考えてみると一家の大黒柱としての父にとってはきびしい毎日だったと思う。結核の特効薬・ストレプトマイシンが急速に普及した時期だったので弟は1年半で退院し、次男も中学校卒業すると帰郷した。

こうして後藤家は危機をのりきった。

 

15, 「世のため、人のため」精力的な活動を展開した

    1960年代に入り、子どもたちは次々に首都圏に就職した。長男は65年に結

婚し、会社勤めをしながら農業を続けた。自分の子どもをひとまず育て上げた義八郎は、50代になってから地域共同体のために活動するようになった。公民館活動が活発になり、生活改善や冠婚葬祭の簡素化運動、文化活動などにとりくまれたが、父は公民館長としてその先頭にたった。また、大滝集落の自治会林野部長、ついで自治会長として造林事業、集落の財政基盤の確立、羽越水害の復旧対策、圃場整備事業、民主化運動などに取り組んだ。

 大滝集落は昔から山林をたくさん所有していた。1960年代、製紙の材料としてブナやナラの雑木が高く売れた。何十町歩という山の材木が北越パルプなどの製紙資本に売られた。その材木の伐採、運搬の仕事が大滝や周辺の人々にまわってきた。大滝集落の財政も豊かになった。その資金をもとにして集落の公民館を建て替えた。また樹木が伐採された後に杉や松が植林された。「公社造林」といって、場所を提供すれば造林の費用はすべて公社が負担し、その木が伐採されたときに分け前を折半するという制度に基づいて造林が進められた。ムラに新しい仕事の場ができた。まさに「一石三鳥」のはずだった。ところが、1967年(昭和42年)晩夏に思いもよらない事態に見舞われた。

 この地方一帯が集中豪雨に襲われた。たしかに未曽有の豪雨だった。しかし山に木があれば被害はもっと少なくおさえられたのではなかったか、という意見があった。大滝集落の所有林だけでなく高度成長経済のなかで、広大な国有林の伐採も行われたのだ。小国町の森林面積の90数%は国有林であった。父は「そこまで読めなかった」と残念がった。また「針葉樹と広葉樹の保水能力の比較については考えなかった。経済的合理性だけで判断した。もっとも国産の杉材がこれほど安くなってしまったのだから、その判断も間違っていたことになるが」と晩年自嘲気味にもらしていた。ある人物によって部落がかき回された時、父は断固としてそれにたちむかった。また、集落の人たちのさまざまな相談にものった。

 1966年2月末、私は東京の生活をきりあげて帰郷した。日本共産党に入り農村で活動したいという私の希望を父が受け入れてくれたのだ。この頃の父は民社党の考え方が一番いいと思っていたが、私の活動には理解を示してくれた。兄はじめ家族のみんなにも協力してもらった。母は心配のあまり「よくあたる」という評判の越後のワカをたずね、占ってもらった。その結果について母は「11年前に亡くなった孝太郎おじさんが出てきて、あの子は決して間違ったことはしないから心配するなと言っていた」とさばさば語った。母なりの納得のしかたと思い私はありがたく思った。以後、母は私の活動を熱心に支えてくれた。私は2年8ヶ月間小国町で活動して、68年11月に米沢の方に移住した。この間、父とは例の公社造林の仕事の道すがら社会や歴史、人生などについて随分話す機会があった。父から学ぶことは多かった。

 私が小国町から去ってから3年後、父は奥山静一小国町議(2001年3月没)のすすめで共産党に入った。父の半生を見た場合、当然とも言える帰結であった。

父なりにそれまでの生き方を総括し63歳で入党したのである。

 この頃いろいろな事情もあって自宅も新たな場所に建て直した。この新宅で、私の子ども、妹の子どもが夏休みなどによく世話になった。長男の子どもも二人いたから一時は随分にぎやかだったと思う。その孫たちも大きくなりしだいに足が遠のいた。孫7人全員が集まったのは義八郎の葬式の時だった。

 

16, 晩年、そして死

    私は、共産党の常任活動家になってから年に何回か実家に帰ることがあったが、そんな時は同じ党員として、時代と情勢、党の任務などについて語り合った。「世の中は一気に変わるものではない、焦るな」と父は私をさとした。

    年をとってからの楽しみは、引っ越してから何年かかけて自分でつくった庭の手入れだった。亡くなる数年前からは、足腰の弱った妻、つまり私の母の介護にあたっていた。兄の話では「おれが死んでしまったあと、ババのことよろしくたのむ」ということが遺言だったという。菩提寺の住職は、山を愛し、山に深く関わって暮らした義八郎が寒中に没したということで「浄雪院義山覚道居士」という戒名を授けた。

    父が亡くなってから、母は寝たきりになり痴呆もすすんだ。さらに言葉もほとんど話せなくなってしまった。父母と5人の兄弟が学んだ種沢の分校が本校に統合されて久しい。杉沢の父の生家も、小倉の母の生家もすでになくなった。小倉は集落ぐるみ消えて廃村となった。後藤本家の建物は残り、広い敷地はよく管理されているが、今は住む人がいない。本家に隣接して建てられた分家の義八郎家もすでに述べたように30年も前に新原の近くに移ってしまった。一帯は小さな公園のようになっている。母が裁縫をならった大滝のお寺は父の葬式後まもなく移築した。

    父や孝太郎爺が眠る高台にあるムラの共同墓地から北方を眺めると、懐かしさがいっぱいつまった箱庭のような景色が一望できる。この地に立つと個としての人間、集団としての人間、歴史のリレーランナーとしての人間について深く考えさせられる。

    私もまもなく還暦を迎える。マラソンでいえば35`地点を通過したというところであろうか。それだけに父たちの世代から何を受け継ぎ、次世代に何を伝え、何を残せばいいのかとしきりに思いをめぐらす昨今である。

                       (2003.03.27)